息子が産まれたばかりの頃、ルドルフ・シュタイナーの人智学に出会いました。

それまで、尊敬する井深さん(ソニーの創設者の一人で、幼児教育に対する造詣が深かった故井深大氏)の本などを読み、胎児や産まれたばかりの赤ちゃんの、無限大の可能性、高い能力(モロー反射、原始歩行、おむつなし育児など)の話に感銘を受けていたのですが、そのような「能力を刺激する」ことで伸びさせる、という考え方ではなく、内から湧き出るものを待つようなシュタイナー教育にも、また、はっとさせられました。

人智学の本を片っ端から読んだり、仲間うちで先生を招いて勉強会を開いたりしていました。

シュタイナー教育は、大きく言うと、自由な魂を育てるための理念やそれに基づく教育方法と理解していますが、その過程で、さまざまな「方法論」があります。

方法論だけに振り回されるのは、違うのですが、それは例えば、一日のなかで、あるいは、季節の中で生きて行くリズムを大切にする、とか、出来るだけ天然のもの、手作りのものを与え、刺激が少ないようにする、とか、テレビなどを見せたり、遊び方の決まったおもちゃや知識を与えたりせず、芸術性や創造性を開花させるのを手助けする、とか、そう言った感じのことです。

シュタイナーの提唱することを、すべて実践することは、私には難しかったのですが、その哲学、考え方からは、息子と関わっていく上で大きな影響を受けました。

なかでも、歯が生え替わる時期までは、文字や数字を教えない、というのは早期教育が「よし」とされる今の世の中の流れに反することのようにも思えますが、「長い人生のなかで、文字に縛られることなくファンタジーの世界を無限に広げて遊んでいられるのは、ほんんのわずかな間。その時期を大切にしたい」と思うようになり、保育園の先生とも相談して、できる限り「文字を教える」ということはしないようにしてみました。

しかし、それでも、息子の学びたい欲求は、強かったらしく、彼が4歳の時に私が「『学ぶ』ということ」と題して書いた日記はこちらです。

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<前略>
最近、彼の中に「文字を読みたい!」という欲求をとても感じる。どこで覚えてくるのか、「あ・い・う・え・お」などとそらんじている。

「わ・ゐ・う・ゑ・を」の発音も正しい。そして、自分なりに、唯一知っている『米』を糸口に、世界を広げようとしている(注:中島デコさんのところで購入した米Tシャツで、「米」という漢字を覚えていた)。

『火』と言う字が『米』に似ていることも、『光』という字が『米』に似ていることも、息子に言われて初めて気付いた。

『明光義塾』と書いてある看板の「2つめの、米に似ている字は、なんて読むの?」と聞くから、「ひかり、とか、こう、とか、ひか、って読むよ」と教えると、「じゃあ、米って字は、ほかになんて読むの?」と聞く。

「まい、とか、べい」と答えると、「茶色いお米にも、『米』って書いてあるよ。あれは、なんて読むの?」と。
「げんまい、のこと?」と答えると、「げんまいの、まい、かぁ!」と納得している。

学童期におけるシュタイナー教育の具体的な進め方については、興味は持っていても、まだ詳しくは知らない。

でも、息子が、自分なりに色々紐解いていく姿を見ていて、こういうのを無理のない範囲で導き、広げて行くのが、シュタイナーのやり方なんだろうな、と私なりに解釈している。

そういえば、3歳の頃、きゅうりを1本渡して、「3人で分けられるように切ってね」と言ったら、自分の包丁で9つに切って3つずつに分けていたので驚いた。

<後略>

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そして、彼の数字に文字や数字に対する興味は、一年生になってから爆発的に伸び始め、今、図書館で大量に本を借りてきて読んだり、計算をしたりすることを趣味としています。

今日は、お風呂の中で「1と1で2。2と2で4。」から始まり、32768(つまり、2の15乗!!)まで暗算していて、驚かされました(ちなみに学校では、まだ1ケタの足し算しか習っていません)。足し算など全く教えたことがないのですが、自分でベストなタイミングを見つけ、吸収しているのです。

私も夫も、どちらかといえば頭ががちがちになってしまう傾向にあります(自分としては、残念なのですが)。

でも、息子の自由な世界をのぞかせてもらいながら、伸びたい方向に伸びるための手助けが必要ならば、できるだけ寄り添い、一緒に学び成長できたら楽しいな、とわくわく感じているこの頃です。